MACOのプロフィール

 ”ガラス吹き人”のmacoと申します。1967年埼玉県の上福岡市で生まれました。(先ごろ,この市は
合併し名前は消えてしまったのですが...)男女男女の兄弟の三番目の次男坊。

 ケンカ&野遊び&イタズラ三昧の腕白幼少期を過ごしました。小学生時代、夏休みともなるとほぼ毎
日片道20kmの道のりを自転車で飯能の渓流まで走り、潜っては川底の渓流魚の美しさに見とれてい
ました。GWから潜り始め、紅葉が散り落ちる季節までただ魚の姿が見たくて水泳パンツ一枚で潜って
いたのです。今考えれば、フィッシュウォッチングのハシリですね。
 潜りのために小学校のプールではもっぱら潜水ばかり。家でも”スーーッ!”と3分ばかり息を止めて
は、そのまま本を読む・・・という妙チクリンな子供でした。

 小学3年生の時に親父からミノルタのハーフカメラをもらい、好きだった秩父連山の黄昏を撮っていま
した。良く晴れた冬の午後「今日の空気の透明感、光はいいな」などと感じるともうウズウズ。
日が傾くと家から3kmほどのところにある入間川の橋の上まで自転車を飛ばして、徐々に赤みを増す
秩父の山々と富士山に見入っていました。葛飾北斎の赤富士(凱風快晴)になぞらえ「今日の赤富士は
いい絵が撮れた」などと悦に入っていました。
 本来の「赤富士」は夏の季語ですが、大気中の水分による乱反射のせいか、夕焼けと同じくらい赤く
染まった富士山はそれは見事でした。その視線を上に移すと透けるようなブルー。そして直上は吸い込
まれるようなコバルトブルー。私のガラスに青いものが多いのは、この黄昏時の空の色の影響だと思っ
ています。

 中学ではサッカー部に顔を出してましたが、やはり生き物系が面白く最終的には科学部に籍を置きま
した。高校では写真部に所属。風景などを撮りっていました。進学校でしたが数学の微分積分でセンス
の無さを思い知り、理科系のくせに語学と生物で受験できた日大農獣医学部(現生物資源科学部)へ
進学。自然保護研究会に入り主に日本野鳥の会での調査やガイド、展示物の制作といったボランティアに携わりました。

 活動の舞台は主に北海道。苫小牧のウトナイ湖サンクチュウアリを皮切りに、後半は釧路の鶴居・伊
藤タンチョウサンクチュアリでタンチョウの調査に携わりました。美しい風景・純白のタンチョウ・愉快な
仲間達・旨い酒・カニや鮭の差し入れ・ステキな恋・・・。思い返すと、いつも寝不足でしんどかったことも
、氷点下25度の寒さも全く気にならないほど、素晴らしくそして楽しい日々でした。
 38歳になった今「あなたにとっての青春は?」と聞かれれば迷うことなく、”これらの数年間”をあげる
でしょう。
 卒業後は米の卸問屋に就職。2年後に財団法人日本野鳥の会の物販のセクションに入社。商品企画
や販売実務(店頭・通販)に携わります。イベント企画で、ナチュラリストとしても有名だった俳優の柳生
博さんから野鳥の巣箱や餌台を借りたこともありました。現在では柳生さんは野鳥の会の会長をされて
いますが、ニュース速報で氏の着任が報じられた時は、一瞬のけぞって絶句し、それから一人乾杯しま
した。よい人が会長の任を受けて下さったものです。

 メジャーな舞台で力試しがしたくて7年後に小学館プロダクションへ。このときBe−palやサライの通
販商品の企画仕事をしました。
 いやはや、雑誌関連の仕事のスピードの早いこと早いこと!!野鳥の会時代の5倍はあったんじゃな
いでしょうか。このとき絵本作家の村上康成さんと出会いました。優しくカワイイ、ステキな絵を描く体育
会系のお兄さん(失礼!)で、多くのことを学ばせていただきました。今は村上さんの絵本が2歳の息子
の愛読書です。

 そして村上康成ブランドの仕事をしている時にガラスに出会ったのです。
「ウィスキーが美味しく飲める、最高のロックグラスが作りたいなぁ」
これが村上康成さんの第一声でした。「茨城の竜ケ崎に「各務クリスタル」という宮内庁御用達のグラス
を作る老舗のクリスタルガラスメーカーがある。そこで作りたい。」と。
 数日後村上さんのデザイン画を持って竜ケ崎のガラス工場へ行きました。そこでハートを射貫かれて
しまったのです。とろとろに熔けたガラス。リズミカルに動く職人達。流れるように生まれてくるガラス器
の数々!

 後日、当時のパートナーY子に言われました。「あなたガラス作家になったら?ガラス工場から戻った
時のあなたは初めて見るくらい興奮してはしゃいでいたわよ。」この一言で決まりました。出版業界での
企画仕事に限界を感じていた私は、程なく会社を辞め、半年間、北海道から沖縄まで工房や工場を見
て回りました。
 「ガラス工芸の学校に入る金は無い。ならば工場に弟子入りだ!」何件か断られた後、1999年7月
江戸川区の江戸きり子の生地を生産している「中金ガラス」に入社が決まりました。今になって思えば
経験もない30男をよくぞ使ってくれたものです。

 5年間この工場で働きました。しかし、唯一最大の危惧だった私の「汗っかき」な体質には本当に苦し
められました。夏は作業場の窯から最も離れたところでさえ摂氏45度になり、坩堝の前では体感温度
は60度かそれ以上でした。2年目に強度の脱水と熱中症からくる「熱疲労」で救急車のお世話になりま
した。それ以後毎年、夏はスペシャルドリンクと休憩時間の水浴びでしのぎましたが、それでも体温が
上がりすぎ、血圧は下がりすぎ・・・何度もよろよろと病院へ行き点滴のお世話になりました。

(工場での体験談はなかなか面白いので、後日「ひとりごと」の項で書きましょう。)

 身体に負荷をかけすぎ、最終的に不整脈と鬱で工場を後にしました。2004年夏にアメリカに2ヶ月滞
在し、メイン州の「HAYSTACK」とノースカロライナ州の「Penland」の二つのクラフトスクールで学ん
できました。時勢柄、即座に工房設立!!とはいかないものの、地元の板橋の花市場で仕事をしなが
らコツコツと吹いております。

 打てば響く、作れば響く
 自分が響かなければ、相手の心にも響かない

数年前、ある書家が私にくれた言葉です。

もっと面白く、
もっと壊れて、
もっとクレイジーに!

「真面目」な自分に負けないように、どこまで進めるか。
どこまで翔べるか!
人生まだ半ば!!
考えずに行こう。

MACO